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mai5de5

Author:mai5de5
ウツ・睡眠障害・不安症・恐怖症・その他いろいろな症状と格闘中。
今はたぶん2002年あたりに見た夢の言葉の意味を考え中。

目覚めなさい星の意思を継ぎし者よ・・・。
「星が輝きを失い世界に闇がおとずれし時、
混乱と憎しみの中に小さな光あらわる。
人々は、その小さな光を支えともに歩み、
大きな光へと成長させ、やがて星に輝きを戻すだろう。」

目覚めなさい星の遺志を継ぎし者よ・・・。
「星の輝きを取り戻し再び闇がおとずれることがないように、
星と共に生き輝きを守り続けなければならない。」

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我は海の子~の夢。
今日、見たは・・・。

・傷ついた多数の男達の体が浮かんでくる。
・数人の男達の中の一人がを要求。
・要求されたには見習い?学生?が大勢乗中。
・比較的若い男が「見習い?学生?じゃ未熟で持ちません」と言う。
・男達の中の長刀を所持している人が長刀で床をコツコツ叩きながら話す。
(木の床が長刀で傷つきえぐれる)
「自分が乗り込んで指導し見習い?学生?を守ります!くらいの気合を見せんか!」
・いろいろ話し合い方針が決まったよう?
・男たちが一斉に「 我は海の子白浪の~」と歌いだす。

ここで目が覚めた。
<我は海の子>で検索してみました。




われは海の子(歌詞[編集] 『尋常小学読本唱歌』所収の歌詞は以下のとおり。)

一、
我は海の子白浪の

さわぐいそべの松原に

煙たなびくとまやこそ

我がなつかしき住家なれ。

二、
生まれてしほに浴して

浪を子守の歌と聞き

千里寄せくる海の氣を

吸ひてわらべとなりにけり。

三、
高く鼻つくいその香に

不斷の花のかをりあり。

なぎさの松に吹く風を

いみじき樂と我は聞く。

四、
丈餘のろかい操りて

行手定めぬ浪まくら

百尋千尋海の底

遊びなれたる庭廣し。

五、
幾年こゝにきたへたる

鐵より堅きかひなあり。

吹く鹽風に黑みたる

はだは赤銅さながらに。

六、
浪にたゞよふ氷山も

來らば來れ恐れんや。

海まき上ぐるたつまきも

起らば起れ驚かじ。

七、
 いで大を乘出して

我は拾はん海の富。

   いで軍艦に乘組みて  

     我は護らん海の國。  


歌詞の変遷[編集]

1910年(明治43年)に『尋常小学読本唱歌』に発表された。
敗戦後7番の歌詞は国防思想や軍艦が登場するという理由でGHQの指示により教科書から削られた。
1947年(昭和22年)以降、小学校では3番まで教えられている。
2007年(平成19年)に「日本の歌百選」に選ばれた。

作詞者[編集]

永年作詞者は不詳とされていたが、1989年(平成元年)5月に宮原晃一郎の一人娘の典子が、
この歌詞は宮原が小樽新聞記者当時の1908年に文部省の新体詩懸賞に応募し、
佳作当選した「海の子」という詩が元になったと主張した[2]。

この主張に基づき、歌詞のモチーフとなった海は
宮原が生れ育った鹿児島県の鹿児島湾(錦江湾)だとして、
湾に面する鹿児島市祇園之洲町 の祇園之洲公園に歌碑が建てられた。

しかし実際には宮原が作詞者であるという直接的な証拠が示されたことはなく、
錦江湾がモチーフになったという根拠は全くない。

一方、芳賀の義理の娘は、芳賀が育ったのも福井の海の近くだったことから、
そこがモチーフになっている可能性もあるのではないかと述べた。


軍歌らしいです。
何故、このようなをみたのか・・・?
今日ので印象に残ったのは< 我は海の子白浪の~><>かな?
男達は自信と誇りと強い気綱をもって歌っていた感じでした。

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テーマ:夢メッセージ - ジャンル:心と身体

自分と向き合う | 08:19:37 | コメント(0)
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